●PEG含浸と軟骨魚類の骨格標本
注意!
・本文中に『一般入手できる』という記述がありますが,一般家庭での作業を推奨する意味ではありません.
・高校や大学の生物系サークルなど,大型専門機器の購入が困難ではあるものの,しかるべき施設と知識を持った人が対象です.
・ホルマリンを扱うので,その処理方法が確立している方々を対象としております.
・ポリエチレングリコールとエチレングリコールは別物です(危険度も).
・現在も試行錯誤中の手法であることにご留意ください.配付資料供養ネタ第3弾.
実際にサメの顎を取ったことがある人ならば分かると思うが,軟骨魚類の骨格は,ただ柔らかいだけでなく,乾燥と共に歪みが生じてしまう(図1).

図1.乾燥に伴うトラザメの顎の変形 a)乾燥前,b)乾燥後 scale bar : 1 cm
凍らせながら水分を昇華させる『凍結乾燥』は一つの解決法だが,機材が数百万するので,現実的ではない.
また,この手法で家庭向きな冷凍庫での乾燥法こと『冷凍乾燥』は歪みを軽減できるものの,幼い個体ではヒビ割れが生じてしまう.
これらの予防策として樹脂を染み込ませる方法は
『魚話その85』で既に触れているが,当時は,良い樹脂が見つからなかった.
いわゆる身近な樹脂は石油系樹脂が多く,樹脂浸透に先立って脱水(完全な乾燥)が必要なため,歪んでしまう.
一方,水溶性樹脂であれば,完全な脱水と樹脂への置き換えが同時に行われる.
もしそんなすてきな樹脂が見つかれば,徐々に濃度を上げていくことで,軟骨を歪ませずに樹脂を染み込ませることが可能だ.

図2.サメの骨格標本作製方法 a)風乾,b)冷凍乾燥,c)石油系樹脂,d)水溶性樹脂
樹脂との出会いは唐突であった.
ある日,呑み会にて,Aさんからポリエチレングリコール(PEG)含浸の話を聞いた.
遺跡から出土した木材は大量に水分を含んでいることがあり,発掘後に放置しておくと,乾燥で歪んでしまう.
それを防ぐためにPEG含浸などの処置が行われるそうだ.
この手法が,剥製業界でもブームになりつつあるのだという.
これは軟骨魚類の骨格とよく似ている(図3).

図3.風乾に伴う軟骨魚類の顎の重量変化(トラザメおよびカスザメ)
scale bar : 1 cm
調べてみると大掛かりな機材が必要で,一般には手が出せない.
ただし,木材に染み込ませる際には細胞壁が難点のようで,動物にはこれが無いため,機材や手法をアレンジできそうだ.
一般入手できる範囲の機材で何とかアレンジした結果出来上がったのが下記の手法である.
機材の関係で小型標本に限定されるが,そこはご勘弁願いたい.
PEGは重合度によって液状〜フレーク状まで種々ある.
今回は含浸法の資料で見かけたPEG4000(500gで約2000円)を購入し,以下の処理を行った.

図4.PEG含浸処理のフロー 筆者が行なっているPEG含浸処理を示した.現在も試行錯誤中であることに留意されたい.
100%まで置換したいが,機材・金銭的に現実的なのは80%(w/v)程度までであろう.
少なくとも60%までは常温で水に溶け,80%は湯煎で溶ける.
僕は定温調理機能付きのIHクッキングヒーターで60℃処理しているが,メーカー保証の対象外になるので,自己責任で.
処理の効果を図5aに示したが,歪みの軽減がおわかりいただけるだろうか?

図5.PEG処理の効果 a)トラザメ顎(上段:乾燥前,下段:乾燥後),b)ノコギリザメ頭骨(入手時に吻は切断されていた) c)ドチザメ上半身(鰓付き) aは撮影時の角度が若干異なっているのでPEG処理も歪んでいるように見えるが,実際はほとんど歪んでいない.cはフラッシュと液跡の残る新聞紙のせいで湿っているように見えるが,実際の触感はサラサラしている scale bar : 1 cm
MSDSを見る限りPEGは危険性が低そうであるが,可燃性や強酸化剤との反応性があるので,除肉や固定後ののすすぎは念入りに.
また,独特の臭いが出るので,排気装置などを使用すべきだ.
また,PEG含浸処理標本にも弱点はある.
第一に接着剤が効かない.
針金固定による連結か,交連状態を維持した状態でPEG処理する必要がある.
第二に高温多湿に弱い.
日向の窓辺や車内に置くのは論外だ.
博物館など,保管環境が整った施設ならば良いが,通常はそうもいくまい.
大型のタッパー+乾燥剤での保管がベターだ.
第三に除肉のごまかしが効かない.
従来の手法では多少の肉は乾燥で目立たなくなっていたが,PEG含浸処理では全ての収縮が抑えられるので,残った肉が目立つ.
第四に特許が絡む.
主に硬化方法に関し,既に特許が受理されている(公開番号:特開平10−287501).
特許に抵触する可能性があるので,凝った方法を思いついた場合,一度チェックしておく必要がある.
本当はもう少し試したかったのだが,サミットでの配布資料と講演をきっかけに始めたアレンジであるため,まだまだ手探り状態だ.
軟体動物のPEG処理標本が少なくとも数年経っても変化がないという報告もされているが,どれくらい持つのかは不明である.
とはいえ,軟骨骨格標本に明るい未来が見えてきた気がするのは僕だけではあるまい.
『サメは骨格標本が作れない』といった魚ネタサイトが大量にあり,多くはそこで完結か,透明骨格標本に話題がシフトしてしまうことが多い.
そのような中で,その常識を覆すべく,このマイナーブログでひっそりと開発・発表していると想像すると,非常に楽しかったりもする.
本日の魚カスザメ
Squatina japonica Bleeker, 1858
ドチザメ
Triakis scyllium Müller & Henle, 1839
トラザメ
Scyliorhinus torazame Tanaka, 1908
参考文献増田 修 他(2003)水溶性樹脂を用いた水棲動物の標本作製の試み(予報).兵庫県陸水生物,55,59-62
遺物の保存と調査(沢田 正昭,クバプロ)
生物起源のものの標本作成法法(特開平10−287501)付属資料
ポリエチレングリコール4000のMSDS(ナカライテスク)→
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